1989 平成元年(昭和64年) 新時代への変革期
—女子勢力拡大による文化祭出展と調理実習の伝統化—
1月 裕仁昭和天皇崩御 史上最長の在位64年
4月 消費税導入 税率3%
11月 ベルリンの壁崩壊 東欧革命
4月23日 新人歓迎 大岳山
5月14日 春山 有間山
6月17、18日 合宿訓練 六ツ石山
7月22日 合宿 南ア 北部
〜27日 仙丈ヶ岳、甲斐駒ケ岳、地蔵ケ岳
?月?日 秋山 八ヶ岳 硫黄岳、横岳
11月13日 晩秋 三頭山
3月25、26日 追い出し 乾徳山
部長 河村高光 顧問 増坪一三 奥 保善 重光哲郎 小苅米美津子
1年生 (21回生) 佐藤浩司 藤森文乃 鬼塚夏海
2年生 (20回生) 河村高光 牧 英樹 北村忠史 蛤谷志乃 中村詩子
3年生 (19回生) 清水高徳 草間俊一郎 大塚健郎 鈴木道雄 野口貴之
羽多野敏郎 村山千春 宮嶋謙吉 森川健太郎 渡辺一成 飯野福哉
部員数19名
<エピソード>
・新歓 スケッチ日和
・ 謎の「おやじ」
・春山 人の家の塀を壊してまずかった
・ 重光先生が来なかった
・ 小苅米先生がタイ焼きをご馳走してくれた
・ それを蛤谷さんは2つ食べた
・合訓 4年前のαおこわを食べたが誰にも異常は見られず
・ 蛤谷さんは頂上までに44匹のヤスデを見たらしい
・合宿 知らない学校の人がテントを「べしべし」と言いながら叩いた
・ 増坪先生が「またすり」をやった 教訓「すべるときはすべる」
・ 先生に食事を作らせる学校にびっくり
・秋山 蜂の子がおいしかった
・晩秋 2年生男子全滅!?
・追行 よっぱらった古沢教授 おなら いびき たまらん
・ しゃもじの代わりに包丁を使った
後になって分かることですが、この頃から山岳部はゆっくりと新しい時代に向かいつつありました。当人達はただその場の思い付きでやったことかも知れないことが、確実に将来において何らかの形に実を結ぶようになる事が多くなってきます。面白いことにその時は分からないものなのです。興味深いのは文化祭への参加でしょう。山岳部は1988年の文化祭に参加し、その様子などが部誌13号「hilu」にも書かれています。そこには「山岳部、いや運動部初の試み」と書かれているので、山岳部が出来てすぐの1971年に既に「運動部初」として文化祭に参加していた事は全く知らなかったようです。知らなかったのにも係わらず2回生と19回生は同じ事を、文化祭に参加しようと思い立ったということに時代を超えた不思議な同時代性を感じます。そしてこの年1989年、初めはやらないと言っていた20回生男子を女子が説得して「また性懲りもなく」文化祭に参加することになったそうです。伝統にはこんな始まりかたもあるのです。
そしてもうひとつの伝統、それは調理実習です。この年の部誌14号「れっぺ」には初めてその調理実習に関する原稿が載せられています。目的は「まずいと言われるアルファ米で少しはましなものを作ろう」でした。2月ということもあり参加者は1年生の佐藤浩司部長、鬼塚夏海さん、藤森文乃さんの3人。特にその様子を伝える藤森さんの書き方は山岳部の原稿に革命的な影響を与えたのではないでしょうか。藤森さんの文章には、のち絶賛された25回生の堀真由美さんに通じるものがあります。調理実習自体は決して初めての試みではなく10回生あたりがカレーピラフを作ったようですが、こうやって記録が正式に残されたことで調理実習は山岳部の重要な活動のひとつになったのです。
それから人数が少ないので見落としがちですが、この21回生は初めて男女比が逆転した年でもあります。こういう事からも変化は始まるのです。また象徴的な事にこの年をもって増坪先生の一歩後ろから部を支えてくださった小苅米先生が去ることになりました。そして、市川ノゾム先生が来るのです。