1984 昭和59年 第三期増坪先生時代、力溢れる再出発
—若き顧問+会長+出版長を擁した無敵時代の始まり—
3月 グリコ・森永事件
10月 インディラ・ガンディー暗殺
5月13日 新人歓迎 鷹ノ巣山
6月9、10日 合宿訓練 六ツ石山
7月29日 合宿 南ア 南部 悪沢岳、荒川岳、赤石岳、聖岳
〜8月3日 (史上初の悪沢制覇)
9月30日 秋山 八ヶ岳 南部 阿弥陀岳、赤岳
〜10月1日
11月11日 晩秋 笹尾根
?月?日 追い出し 川苔山
部長 江口照寿 顧問 増坪一三 小苅米美津子 吉武正雄
1年生 (16回生) 川村剛太 篠原京子 窪田直文 安西昭範
2年生 (15回生) 江口照寿 石黒 淳 小倉 和 五島隆子 佐々英徳
畑中秀和 山田健治 佐藤雅哉 鈴木 愛 横尾有紀子
3年生 (14回生) 須藤克利 辻 隆治
部員数16名
<エピソード>
・新歓 野牛の遅刻、本人の負担とならぬよう見捨てる
・ 英語の授業で「buffalo」を「のうし(野牛)」と訳して以来、
「のうし」もしくは「牛」と呼ばれるようになった佐々英徳
*参考文献「野牛の拳」 伝説の出版委員長である
・ スケッチ日和
・合訓 再びスケッチ日和
・合宿 高山裏にはもう泊まりたくない
・ 悪沢岳にKAC初(?)登頂
・ サンショウウオ
・ ロス五輪
・秋山 「畑中君は牛乳1リットル飲んで下痢したそうです」
・前年出すことの出来なかった部誌の構想を受け継いだ形で、部誌9号「ぶよ」が年度末に発行される
・畑中秀和_生徒会長 以降、山岳部は総務に人事を送り続けたため、生徒会室は山岳部の部室となる
林先生が転任された後、山岳部には男性の顧問の先生がいなくなってしまいました。当時は部員が直接お願いしたい先生に顧問をお願いして、承諾が得られれば部として成立するというシステムだったそうです。校内に山の経験者がいなくなってしまった中、部員が狙いを定めたのはこの年赴任された生物科の増坪先生でした。増坪先生も山の経験はほとんど無かったのですが20代という若さが何より魅力的で、部員が何度も頭を下げ、また倉田OB(9回生)が来校して全面的協力を約束した結果、増坪先生の中に「諦めにも似た思いが次第に心を浸食しはじめて」きたということです。かくして新しい顧問と江口部長らパワフルな15回生を得て山岳部は再出発しました。倉田OBの時代区分によると「山岳部第3期 増坪先生時代」の始まりということになります。
増坪先生は新人歓迎からその期待以上の強さで周りを驚かし、「あまりおいしいとはいえない食事」を出してくる部員を見限らずに正に部の一員として苦楽を共にしてくださるのです。合宿は南ア中部で三伏から入り悪沢を空身でピストンするコースを取りました。この頃はまだ高山裏にトイレが無く林の中にレッペの花が咲いていたと、増坪先生はもの珍しげに書いています。悪沢や荒川小屋の近くで何度も雷鳥に遭遇したところ、案の定その日の午後から雷を伴う大雨に見舞われました。これは奇声を上げながら悪沢を駆け下りていた江口さんに蹴飛ばされた雷鳥の呪いだとも言われています。ところでこの日増坪先生は水場で顔を洗っている最中にメガネを脇に置いていたところ他の登山者に片方のレンズを踏み潰されてしまいました。幸いOBとして参加していた前の顧問の林先生の予備のメガネを借りることが出来たので、片っぽだけのレンズのメガネで山を歩くという最悪の事態は避けられたとのことです。増坪先生は初めの年からこんなにひどい目に遭っているのにこのあと10年間も顧問を引き受けてくださったのですね。そしてこの年度の終わりに久しぶりの部誌が伝説の出版委員長・野牛(のうし)こと佐々英徳さんを発行人として出されました。山岳部は名実ともによみがえったと言えましょう。