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1983 昭和58年 語り草「陸上部スーパーテント事件」勃発

     —自覚と熱意の起死回生、経験の未熟さが生んだ珍事—

     4月 「おしん」放送開始、視聴率平均52%最高62.9

     9月 ソ連 大韓航空機撃墜


    4月24日    新人歓迎  (行き先不明)

    5月15日     春山   鷹ノ巣山

    6月11、12日 合宿訓練  六ツ石山

    7月29日     合宿   南ア 中部 塩見岳、農鳥岳、間ノ岳、北岳

     〜8月2日                (白根三山縦走)

    10月1、2日   秋山   谷川岳 蓮峠

    ?月?日   (以下不明)

 

     部長  須藤克利    顧問  林 道雄  小苅米美津子

1年生 (15回生) 江口照寿  石黒 淳  小倉 和  五島隆子  佐々英徳

  畑中秀和  山田健治  佐藤雅哉  鈴木 愛  横尾有紀子

2年生 (14回生) 須藤克利  辻 隆治

3年生 (13回生) 岡根正樹  石平晋一郎  中川隆一

  部員数15名

 <エピソード>

・新歓 今年の1年生は強い

・春山 六ツ石山頂で他校の人たちに恐れられた

・   佐々の寝顔がかわいかった

・合訓 陸上部スーパーテントに寝た!?

・   佐藤が突然オールバックをやった

・   石黒チャーリーのザックがぶざまだった

・合宿 シュラフの中でブヨがカーニバル(謝肉祭)をやっていた

・   須藤先輩がホームシックになった

・   石黒のいびきが超うるさかった

・秋山 憧れの谷川岳!

・   畑中が新前橋駅で外国人に馬鹿にされた

・   鈴木さんがその外国人に16才と信じてもらえなかった

・   小川テントは最悪だ!

・   塩、味噌を忘れた

・   谷川岳山頂に美女がいた

・   「山へ行くたびに知性と理性が無くなる」(畑中)

 「この年、山岳部もこれまでか、という程の部員の減少を見る。というのも、部長の須藤も実質的にはこの年からの活動というし、1年生いかんによっては、山岳部も終止符を打たん。という時、やはり山に登る人間はいるもので、15回生は10人というかつてない数を記録し、しかもこの代には生徒会長や出版委員長なんぞがいて、誠にたのもしい限りである。」(倉田さんの文章より)。この生徒会長というのは畑中秀和さん、出版委員長というのは佐々英徳さんのことです。15回生は新歓でも春山でも期待を裏切らない強さを発揮し、下山中に歌が出るようになったとか部の雰囲気に係わることで様々な変化をもたらしたようです。また今でこそ笑い話ですがこの年の合訓である事件が起きました。当時はまだ格技棟が無かったので部室は一部の部にしか無く、山岳部は体育教科準備室(A棟1階一番奥)の前に置かれたロッカーにキスリングやらラジウスやらを置いていました。体育準備室前というのがカギです。水根沢キャンプ場でいつものようにテントの設営をしているとどうも勝手の違うものがあることに気が付いたそうです。ずるずると引き出して広げてみたところそれは陸上部のテントでした。しかもよく運動会などで「本部」として立てられるあの白いテントだったのです。犯人追及の結果、畑中さんと石黒さんが山岳部のロッカーと間違えてその隣の体育科のロッカーから、そこにあったテントらしきものをたいしたチェックもしないで持ってきたということが分かりました。ご丁寧なことにそのポールまで持ってきていたので結局そのテントを立てて何人かはそこに寝たそうです。幸い雨は降らなかったのでその壁の無いテントに横から雨が吹き込むようなことはなかったそうです。これが世にも名高い「陸上部スーパーテント事件」で、「合宿ではテントに寝たい」とは須藤さんの感想です。それにしてもあんなテントと間違えるという当時の部のテントとは一体どんなものだったのでしょうか。

 さてこの年をもって林先生の日野高校への転任が知らされました。「第2期山岳部林先生時代」の終わりです。こうした偶然によっても次の年山岳部は変化の時を迎えたのです。

 

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