1982 昭和57年 旬年の危機、新人ゼロ 部員6人時代
—暗い緊い噛み合わない3K払拭は山岳部永遠の命題—
4月 フォークランド紛争
10月 CD(コンパクトディスク)発売開始
11月 中曽根康弘首相就任
5月16日 新人歓迎 三つ峠山
6月26、27日 合宿訓練 七ツ石山
8月13日 合宿 北ア 奥穂高岳、前穂高岳
〜8月16日 (台風による南ア壊滅のため直前に予定変更)
10月1〜3日 秋山 八ヶ岳
?月?日 冬山 (行き先不明)
3月?日 追行 (行き先不明)
部長 岡根正樹 顧問 林 道雄 小苅米美津子 中田政美
1年生 (14回生) なし
2年生 (13回生) 岡根正樹 石平晋一郎 中川隆一 (長嶋 賢)
3年生 (12回生) 桜井 聡 西沢一憲 清水昌一
部員数7名
<エピソード>
・新歓 1年生が来なかった!
・ 富士急の椅子が落ちた
・合訓 1年生がいなくて残念だった
・ 肉が腐った
・合宿 松本駅で酔っ払いにからまれた
・ 上高地に失望した(中川)
・ 上高地が良かった(中川を除く)
・ 石平が3m程落下した!
・ 中川が原因で道に迷った
・ 雨が顔にあたると痛いという発見
・ この合宿にコリてタラちゃんが退部してしまった
・秋山 行者小屋〜美濃戸間で驚異的なスピードを出した(55分)!?
・ 2日目天気に恵まれなかった(中川が雨ごいをしたため?)
・ 岡根が寝ながら歩いていた(史上初)
・ 中田先生が酔って岡根にからんだ(史上初)
・ 中川がエスパースの半分を占領した(常習犯)
やんぬるかな、この年山岳部は最大の危機(当社比)を迎えました。仮入部してきた3人の1年生が3人とも入部しなかったのです。新歓は2年生のみ3人、合訓も2年生のみ。なんと57年度は1年生のいない年になってしまったのです。この年の事については部長の岡根正樹さんが「第2期OB会会報第2号」に寄せた文章を転載しているのでそちらを読んで下さい。この場では、なぜこうなったのか、なぜ部員の確保が困難だったのか、を考えてみたいと思います。
部員の深刻な減少が始まったのは56年度の1年生である12回生からでした。それ以前では最後の部誌となった「かたつむり」には当時の山岳部の雰囲気を如実に伝える文章があります。後の名簿にはその名が書かれていない方なのですが、12回生の女子部員の馬場さんは「ほんの数週間しかクラブ活動に参加しませんでしたが、とっても楽しかったです。でも山岳部の活動場所はB棟の裏ということで、少し暗い雰囲気でした。」と書いていますし、同じく12回生の大西智子さんは「一番最初にクラブに出た時から感じていることは、何となく雰囲気が暗いのです。(主観的かな?)」と書き残してくれました。山岳部は暗いと見られていたのです。また岡根部長もオリエンテーションでの自分のことを「暗かった」と分析しています。山岳部という名前に「きつい」とか「きたない」といった負のイメージがいつも付きまとっていることは御存知の通りです。どうやらこの3年間の部員が極端に少ない時代は、オリエンテーションや日々の活動を通してその負のイメージを拭い去ることが出来なかったのです。厳しい言い方になりますがただ運が悪かったでは済まされないかもしれません。次年度の部長である須藤さんは実質的に2年生になってからの入部ですので、岡根部長はもう一度オリエンテーションに臨むことになりました。ここで人数を取れなければ同好会落ちです。まさに背水の陣。実際に活動していたのは4人程だったので、必要な人数は幽霊部員を含めても8、9人といったところでした。まさしく最大のピンチだったのです。