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1981 昭和56年 史上初、北アルプス合宿敢行

     —素晴らしき少数精鋭は幽霊部員と活動沈滞の裏返し—

     1月 「強いアメリカ」ロナルド・レーガン登場

     5月 「ヨーロッパの赤い薔薇」ミッテラン就任

     6月 アメリカで初めてAIDS症例が報告


    5月17日    新人歓迎 鷹ノ巣山

    6月20、21日 合宿訓練 六ツ石山

    7月28日    合宿   北ア 常念岳、槍ヶ岳、双六岳、新穂高岳

     〜8月1日            (史上初の北アルプス合宿)

    10月1、2日  秋山   金峰山

    11月15日    晩秋   三頭山

    1月24日   臨時冬山  大菩薩嶺

    2月11日    冬山   三つ峠山

    3月28、29日  追行   雲取山

 

     部長  桜井 聡    顧問  林 道雄  小苅米美津子

1年生 (13回生) 岡根正樹  石平晋一郎 長嶋 賢  中川隆一 

2年生 (12回生) 桜井 聡  西沢一憲  清水昌一 

3年生 (11回生) 村山裕明  一木吉幸  大村泰宏  粟田茂樹  前沢正治

  森谷裕司

  部員数13名

 <エピソード>

・とにかくかわいい長嶋タラオ

・合訓 370円拾ってみんなでアイスを買った

・   「なぜか埼玉」

・   タラちゃんがタコボーズになった

・合宿 タラちゃんが駅員に「この坊やも一緒に行くの?」と言われた

・   岡根と清水が沢に落ちた

・   大天井で爆発事故が発生し清水が被害を受けた

・   元過激派がとなりにいた!? 2日目

・晩秋 中川君が奥多摩湖の水を飲んだ

 さてこの年から3年間、部誌が発行されない時代が続きました。よって史料は山岳部ノートと第2期OB会会報2号にのみ限られることになったため、なかなかひとりひとりの声というものは聞こえにくくなってしまいました。前年度、新1年生の獲得に失敗していたため桜井部長の意気込みたるや遥か10余年の時を越え伝わるものがあるのですが、悪いことは続くもので仮入には何人も名を連ねたものの、いざ蓋を開けてみれば4人しか残りませんでした。4人というのは他の年度に比べても必ずしも少ないという人数なのではないのですが、いかんせん抜けた10回生7人の穴を埋めるためにはいつものように幽霊部員のお世話になる羽目になりました。顧問の先生にも人事がありまして英語科の小苅米美津子先生が加わりました。この年以降小苅米先生は年齢を理由に一時退かれたりしたこともありましたが(そうは言っても「誰よりも強かった」そうです)結局6年に亘って5年間顧問を引き受けてくださって、第2期と第3期の橋渡しをしていただいた形になりました。そんな小苅米先生は増坪先生の話によると大変な山のエキスパートでいらっしゃって顧問を退かれてからもエベレストに行ったとかいうことです。

 またこの年の大きな特徴は初めて合宿で北アルプスへ行ったことです。主な理由はこの年南アルプスが高校総体か国体か何かに使われた為ですが、南アに不慣れであったらしい林先生の意向というものもあったかも知れません。とにかくこの年は年間予定を立てた時点で北ア行きが決まっていました。そういう意味ではこの次の年とは事情が違うようです。合宿は天気にも恵まれたので4泊5日の予定のところを3泊4日で駆け抜けました。合宿の反省の中には「荷物を軽くするため合宿に行く人数は少ないほうが良い」といった強気な意見もありますが、部として存続させるために「幽霊部員でもいいからどんどん入れる」と部員の意気込みを反映したものもあります。しかし部誌が発行されなかったということは、ただそれだけの事実にとどまらず、活動が沈滞していた証しでもありました。

 

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