1980 昭和55年 大変革時代、初代部誌創刊
—分担と伝承の復活は山岳部員の自立と連帯を促した—
5月 光州事件
6月 大平首相急逝
8月 ポーランドのワレサ「連帯」結成
5月11日 新人歓迎 大菩薩嶺
6月16、17日 合宿訓練 御前山
7月29日 合宿 南ア 南部 荒川中岳、赤石岳、聖岳
〜8月3日 (史上2度目の南部制覇)
10月1、2日 紅葉 八ヶ岳、赤岳
11月23日 秋山 三つ峠山
2月11日 冬山 川苔山、本仁田山
3月30、31日 追行 (行き先不明)
部長 村山裕明 顧問 林 道雄 中田政美 奥 保喜
1年生 (12回生) 桜井 聡 西沢一憲 大西智子 馬場なをみ
2年生 (11回生) 村山裕明 一木吉幸 大村泰宏 粟田茂樹 前沢正治
森谷裕司
3年生 (10回生) 中西太郎 岩崎 隆 宮崎裕夫 奥村太郎 本田真也
田中舘智橘 草間 良
部員数17名
<エピソード>
・トレーニングメニューが オードブル・メイン・フルコース・デザート の4つになった
・「ブタになってしまう」
・合宿 中央線が事故で遅れて混乱した
・ ジャムが座布団になった!?
・ 一木ネコがでた
・ 「ひげたつゆ」でお茶をわかしそうになった
・紅葉 キセルが出来なかった
・ 中田先生もキセルをやりそこねた
・冬山 青梅マラソン
・ ハンターが怖かった
・ EPIガス、初登場?
・追行 バイキング風の夕食
・ センム(誰のことかは不明)
・ 忘れ物の多い一年だった
これまで3代続けて安定した部員を確保してきた事に油断したのか、この年の新歓の成果は桜井さんひとりでありまして、ふたたび将来の展望が暗くなってしまいました。このことで逆に奮起した11回生の村山部長は山岳部の改革に手をつける決心をしたようです。部員と顧問の先生の、あるいは部員同士の交流を計りクラブの連帯を深めたり、各人の仕事の分担をより明確、且つ強化したり、トレーニングを生理学的根拠に基づいて4段階に再編したりもしました。この4段階のトレーニングについてはその内容を実に細かく書いたレポート用紙が部室に残っています。「残っています」というより後の部員に伝えるために残したのでしょう。また部員の自立を促すための個人山行の奨励や、次年度活動をより円滑にすべく引き継ぎ時期の繰り上げ、並びに1年生による新年度予算の編纂などもやったと書かれています。
そしてその集大成とも言えるのが部誌8号「かたつむり」の発行でした。この年からこれまでは秋に発行していた部誌を年度末発行に切り替えました。これによって書かれる話題が合宿に片寄ることがなくなって話題が豊富になるだろうとの考えからだそうです。「かたつむり」という名前にもちゃんと理由があるので抜粋したいと思います。かたつむりは貝の仲間である、と始まり「どんなに身体を伸ばしてみても貝の仲間である以上彼の持ち家はついてくる。山登りも山へ登る以上いっさいの家財道具を背負って歩かなければならない。カタツムリが、雨の日のアジサイの葉の上をのろのろと歩く姿はどこか山登りに似てはいないだろうか。」とのことです。これも恐らく村山部長の字だと思います。村山部長の編集後記からは林先生時代の山岳部に対する強い期待が伝わってきます。またこの「かたつむり」には3年生である10回生も原稿を寄せていますが皆さん文章が大変お上手でして、その中でも特に草間良さんのものは秀逸です。10回生は6、7、8号の部誌に原稿を書いていますからその人物像も少しは伝わってくるのですが、この頃の山岳部員はなぜかとっても哲学的なのです。ぜひ読んで下さい。