1979 昭和54年 第二期山岳部始動、林先生時代
—上下関係に暗雲、伝承と先達の役割は異大だった—
2月 ホメイニがイランに帰国
5月 イギリス サッチャー首相就任
7月 ソニーがウォークマンを発表
5月13日 新人歓迎 鷹ノ巣山
6月16、17日 合宿訓練 本仁田山
7月29日 合宿 南ア 北部 仙丈ヶ岳、甲斐駒ケ岳、鳳凰三山
〜8月3日 (史上2度目の鳳凰制覇)
2月17日 冬山 三頭山
3月26、27日 追い出し 棒ノ折山、川苔山
部長 中西太郎 顧問 林 道雄 松本 明
1年生 (11回生) 村山裕明 一木吉幸 大村泰宏 粟田茂樹 前沢正治
森谷裕司
2年生 (10回生) 中西太郎 岩崎 隆 宮崎裕夫 奥村太郎 本田真也
田中舘智橘 草間 良
3年生 (9回生) 雄山隆司 石井茂和 石川進一郎 市川 淳 倉田節也
北川雅基
部員数19名
<エピソード>
・テントポールを一人でやすりがけして直した、中西
・造語「レッペ」
・田中舘の口癖「ブタでぇ」
・汁が薄く具が少なかった力うどん
・べちゃべちゃになった五目寿司
・餅に味が染みていなかった味噌雑炊
・ケチャップが足りないスパゲティ
・芯飯だった鳥釜
・魚肉ソーセージ入れすぎたピラフ
・野菜が硬いカレー
・シチューはうまかった 以上、合宿より
・部報7号発行 3月
さてこの年から「山岳部第2期 林先生時代」が始まります。林先生という方は山に登るようになったきっかけは植物にあったそうです。大学時代に土壌採取のために登った奥秩父の十文字峠のシャクナゲの大群落が忘れられないと書いていらっしゃいます。実はこの林先生時代には部誌が初めの2年分しか発行されなかったため、林先生について分かるのはこれくらいしかありません。他に学校創立10周年記念誌にある写真から結構若くてひょろっと痩せていたということが分かるくらいでしょうか。
さてこの年あたりの合宿から何となく今までとは違う雰囲気が感じられるようになります。まずOBの参加者がいなかったということ、3年生も倉田さんひとりだったということなどです。特に3年生が合宿にいかないようになり始めるのはこの頃ではないでしょうか、とは倉田さんの回想です。この変化は山岳部に何をもたらしたかと言うと、この年の合宿に限ったことを言えば、1年生と2年生の仲たがい、気まずい関係、うまくいかない意思の疎通、といったものだったようです。どうしてこのようなことになってしまうのでしょうか。その理由は合宿に1年生と2年生しかいないことにあります。林先生もまだ全幅の信頼を集めるには早過ぎましたし、倉田先輩もでしゃばらないように気をつけていたのでしょう。つまり上級生たる2年生と下級生たる1年生が上下の間柄しかない、いびつな人間関係を築き上げたのです。だから「いばってばかりいる先輩」「言う事をきかない後輩」という相互不信が起きたのでしょう。さてこのような事態を回避するにはどうしたらいいかというと、倉田さんの言う通りですが積極的に3年生が口を出すことです。これによって上級生、中級生、下級生という人間関係を作ることが出来れば、それぞれが牽制しあうことでバランスが取れるはずです。要はバランスですから3年生の必要以上の口出しは害毒に過ぎませんが、1、2年生だけの山岳部にしないことは3年生の責任であるとみてもいいでしょう。こうした問題はいつの時代に起きても不思議ではないはずです。