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1978 昭和53年 第一期集大成「部誌6号デラックス版」発刊

     —次世代への序章は突然に、出来る範囲でなされば良い—

     5月 ラインホルト・メスナー無酸素でエベレスト登頂

     5月 成田新東京国際空港開港

     10月 新ローマ教皇にヨハネ・パウロ2世着任


    5月13日   新人歓迎   鷹ノ巣山

    6月10、11日 合宿訓練   御前山

    7月29日   合宿     南ア 中部 北岳、間ノ岳、農鳥岳、塩見岳

     〜8月3日             (白根三山縦走)

    11月12日    秋山    川苔山、本仁田山

    3月29、30日  送別    大岳山、川苔山

 

     部長  雄山隆司    顧問  高原 将  松本 明  茂木秀二 (林 道雄)

1年生 (10回生) 中西太郎  岩崎 隆  宮崎裕夫  奥村太郎  本田真也

  田中舘智橘  草間 良

2年生 (9回生)  雄山隆司  石井茂和  石川進一郎  市川 淳  倉田節也

  北川雅基

3年生 (8回生)  佐藤 寿  中野 聡  柴田 謙  都留健司

  部員数17名

 <エピソード>

・倉田、サボリ魔返上

・始めのうちは来なかった1年生

・球技大会の最中に山へ行った、柴田と都留

・ピラフ事件

・「部報6号デラックス版」発行 10

・高原先生の転任 3学期に知らされる!?

・南アルプススーパー林道開通

 オリエンテーションでは自転車を使って何かしたところ(本当に何をしたのか分からない)新1年生7名を獲得、卒業した7回生9名の穴を無事埋めることが出来ました。この1年生は新歓も合訓もそつ無くこなしたようです。連日のトレーニングを経て合宿へ。顧問だった松本先生も茂木先生も参加できなかったところへ、この年転任されてきた化学の林道雄先生が高原先生と同行してくださいました。このことが次の年に運命的な出来事になるとは知らず、林先生はただ念願の北岳に登れると言うことで参加したそうです。合宿では4日目の雨にひるむ部員に対して「我らは好んでこの大自然に飛び込んで来ているんだ。それがちょっとばかり天気が悪くてつらいからって、ここで停滞するなんていうのは、情けないんじゃないか。」という高原先生の(恐らく)喝が入ったことを倉田さんが書き残しています。

 合宿から帰ってくると山岳部史上空前の大きさの部誌の制作にかかりはじめました。10月に発刊されたこの「部誌6号デラックス版」には2回生の鶴上さんも文章を寄せていますし、なにより高原先生が載せた「山岳部の歴史」という原稿が目玉でしょう。そんな高原先生の転任を部員が知ったのは年が明けた3学期のことでした。当時のノートからもその知らせがいかに衝撃的であったかが分かります。山岳部の誕生からつきあった万年顧問にも別れの時が来たのです。31歳で国分寺高校にいらしてまだ8年でしたから若い先生でした。さてそこで持ち上がったのが次年度の顧問の先生の問題でしたが、先ほどの林先生を説得したのは高原先生だったようです。林先生は山は趣味で行かれるような方だったようで「高原先生のような立派なことはできないとお断りした」そうです。そこを高原先生に「出来る範囲でなさればよい。秩父での合宿でもいいんじゃないですか」と言われて山岳部の顧問を引き受けてくださることになりました。高原先生を中心にしたとかげ会のメンバーはこの年の部員までで、今(平成8年現在)でもとかげ会は年1回、お正月に高原先生のお宅に集まっているそうです。

 

この当時の部誌(個人原稿)を読む

 

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