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1977 昭和52年 一大革命ジィフィーズ導入

     —訓練強化と軽量化の全盛期は、同時に反抗期の時代—

     5月 スターウォーズ封切り

     9月 日本赤軍ハイジャック・ダッカ事件「人命尊重」

     10月 ルフトハンザ機ハイジャック 犯人全員射殺


    5月8日    新人歓迎   鷹ノ巣山

    6月11、12日 合宿訓練   本仁田山

    8月5〜10日  合宿    南ア 北部 仙丈ヶ岳、甲斐駒ケ岳(鳳凰三山は中止)

    11月13日    秋山     三頭山

    (?月?日   冬山     大菩薩嶺 都立高専の遭難事件を受けて、中止)

    4月8、9日  送別     鹿倉山

 

     部長  佐藤 寿    顧問  高原 将  松本 明

1年生 (9回生)  雄山隆司  石井茂和  石川進一郎  市川 淳  倉田節也  北川雅基

2年生 (8回生)  佐藤 寿  中野 聡  柴田 謙  都留健司

3年生 (7回生)  鈴木博実  古谷英之  松村勇人  西木英人  谷川有一

  山田宏司  春川文男  細渕 茂  柳田浩貴

  部員数19名

 <エピソード>

・3年生より強い1年生

・でもよくさぼる1年生 「おめぇら、あめぇよ」

・ジフィーズはとてもすばらしい

・塩を忘れた合訓

・オリエンテーリング同好会がNo.3のテントポールを紛失

・倉田が5リットルポリタンを忘れた

・「不足品は倉田の家」が鉄則

・新人勧誘には全員わり箸を用意すること

・自転車部隊 倉田、北川

 この年昭和52年度から59年度までは9回生の倉田さんが書いた「第2期OB会会報第2号」の「第2期山岳部のようす」というものが史料に加わります。これは52年度に入学した倉田さんの現役からOBにかけての思い出をまとめたものですが、それゆえ残念ながら合宿に参加されていない年のことについては記述も限界があります。さてこの年はまた合宿の献立について山岳部史上画期的な事がありました。山岳部ノートから抜粋します。「献立は軽量化とうまさを考えることから山岳部史上初めてジフィーズを使用し、朝食から積極的にカンヅメをなくす。」だそうです。現在山岳部員を震撼させているジフィーズも「うまい」と思われていた時代があったのですねと、目からウロコの一文でした。ちなみに18回生の澤渡さんは「僕は長い間ジィフィーズとジンフィーズ(アルコールの一種)を間違えていて、最初の頃は装備表に「ジィフィーズ」などとあるとギクリとしたものである。」と書いています。またこの年オリエンテーリング部にテントを貸したところ彼らがポールを紛失し合宿直前に弁償してもらったようです。

 合宿は途中まではいい天気だったのですが4日目から雨にたたられ停滞、昨年に続き予定を変更して下山したということです。5日目のテント場の広河原では花火などをしました(しけってしまわないのでしょうか)。ノートには合宿から帰ってきてからも様々なトレーニングをしていたことが分かります。天気図講習というものもある時期毎日のようにやっていますし、冬場の水泳部たちとバレーボールもしています。ところがノートの大半を占めるのは練習に出てこない1年生への注意なのであり「向上心に欠けている」などと書かれています。サボリ魔の倉田さんなどが原因のひとつなのではないかと勘繰りますが、部長の佐藤寿さんの口癖は「お前ら、あめぇよ」だったそうです。この年都立高専の生徒が冬山で遭難し、我が山岳部でもそのあおりを食って冬山を中止させられました。1月、2月の大菩薩は「冬山」とは言えない、腑に落ちない、とは高原先生のお言葉です。

 

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