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1974 昭和49年 第一次山岳部弱体危機

     —衰退の兆しを見せる中、南ア3部構成を初踏破—

     8月 ニクソン辞任

     12月 田中角栄辞任 列島改造の失敗 一桁の支持率


    5月19日    新人歓迎  鷹ノ巣山

    5月15、16日 合宿訓練  本仁田山

    8月2〜8日  合宿    南ア 北部 仙丈ケ岳、甲斐駒ケ岳、鳳凰三山

    1月25、26日  冬山   鷹ノ巣山

    4月3、4日  送別    三頭山

 

     部長  小口 充    顧問  高原 将  鈴木弘久

1年生 (6回生)  石黒祐志  伏見一彦  田中靖生

2年生 (5回生)  小口 充  鈴木克之助  野口和紀  藤野はるみ  石黒京子

  佐藤知美  黒田尚文

3年生 (4回生)  中川 充  岡田良司  前山浩一  西沢利重子  苗代幅照子

  岩間正巳  富山裕子  石浜良行

  部員数18名

 <エピソード>

弱体な1年生

将来に対する漠然とした不安

自転車山行

 この年、犬飼先生が転任され柳下先生がオリエンテ−リング同好会に専念されることになったので鈴木先生が新たに加わるなど、顧問の先生に若干の異動がありました。この前の年もこの次の年もそうなので、この年の新歓も合流山行の形式が取られたと思われます(強引な解釈で申し訳ありません、ページの都合だと思ってください)。合流山行はこの時代の新歓でよく使われているようです。これは2つのパーティーが山で一緒になることが名前の由来なのですが、3年生とOBのパーティーが鷹ノ巣の避難小屋に前日から泊まり込んで、翌日の昼頃に上がって来る1、2年生に昼ご飯を用意して待っている、という形の山行です。まさしく新人を歓迎するのだ、という強い意志が感じられますし、なにより1年生はほとんどカラ身で登れるようです。

 ところがこの年の1年生にはこんな新歓で、しかも楽なコースを歩いたのにバテてしまう人が出たり、合訓で動けなくなって、あと少しで頂上という所から3年生の中川さんに背負ってもらったりと、高原先生もはっきりと「弱体な1年生」と書いています。そしてとうとう合宿に参加した1年生が石倉さんひとりという有様になり、山岳部もいよいよこれまでか…との観測も出たという事です。しかしご存じのように山岳部はこの先何度か同じような危機に直面しながらも、何とか切り抜けていくのです。乞うご期待。ところで鷹ノ巣避難小屋(95年改築前)の壁のブロックのひとつに我らが国分寺高校山岳部のサインがうっすらと残っているのですが、そこに添えられた名前は「黒田、鈴木」だったと思います。この5回生のお二人はこの年「雲取自転車山行」に挑戦しました。部誌を読んでもらえればそれまでですが、つまり雲取山に自転車で登り、あとはそのままそれに乗って楽に降りてこようという夢のような計画でした。「荷物も自転車につけているから背負う必要もない」と冗談とも本気とも取れる言葉が残っていますが、結局自転車を背負って登る羽目になり雨にも降られて苦労したということです。でも家から雲取山まで自転車で行って、よくこの行程を1泊2日で生きて帰れたものだと思います。

 

この当時の部誌(個人原稿)を読む

 

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