1972 昭和47年 ドバシ式導入と女子部員入部
—初年の反省を改善するも新たな課題、女子の合宿辞退—
2月 連合赤軍浅間山荘事件(19日)
ニクソン訪中(21日)
5月 沖縄返還
7月 田中角栄内閣成立 列島改造始まる
9月 日中共同声明
5月7日 新人歓迎 御前山
6月18日 合宿訓練 本仁田山
8月2日〜7日 合宿 南ア 中部 塩見岳、間ノ岳、北岳(白根三山)
9月17日 写真撮影 大沢林道
11月2日 秋山 鷹ノ巣山
1月14日 冬山 雲取山
部長 二木淳吉 顧問 高原 将 柳下惇夫 鈴木弘久
1年生 (4回生) 中川 充 岡田良司 前山浩一 西沢利重子 苗代幅照子
岩間正巳 富山裕子 石浜良行
2年生 (3回生) 二木淳吉 棚橋 乾 栗原明雄 小島正次
3年生 (2回生) 中島 貢 土橋明彦 鶴上英彦 保坂秀一 西村寛州
部員数17名
<エピソード>
・女子部員の入部!
・13人なのに団体券が使えた新歓!?
・ドバシ式さおばかり
・ザック麻酔にかかった前山の腕
・部誌(部報)第1号発行 9月
・初めての合流山行 秋山
・秋山まで参加した3年生
この年、山岳部に初めての女子部員が入部しました。西沢利重子さんと富山裕子さん達だと思われます。西沢さんは入部を決めたあたりのことを部報に書いていますが、オリエンテーションの様子などは今とほとんど変わらないようです。これは推測ですが西沢さんと富山さんの住所が近いということから、先に入部を決めた西沢さんが中学時代からの友人である富山さんを一緒に誘ったということかもしれません。ところで部の雰囲気を良い状態で維持したいと考えるならば、山岳部に入る時の女性の心理というものを歴代の部長は知っておかなければなりません。なぜなら、これは独自の物の見方ですが、部の女性含有率(失礼)と部のギスギス度とには直接的な関係があるはずだからです。
さて話がそれましたが、この女性部員達は親などの反対が理由のようですが、合訓には参加しながらも合宿には行けませんでした。その合訓では去年の反省からみんなのキスリングの重さを25キロに揃えようとはかりが持ち込まれました。ところが当時30キロまで計れるばねばかりが見つからなかった為に、3年生の土橋さんは家の体重計を使って天秤棒のような物に目盛りを記してさおばかりを作ってきたということです。これは翌年から「ドバシ式」と呼ばれるようになります。そして合宿は南ア中部でした。この年は合宿のしおりが残っていないため食事の内容などは分からないのですが、合宿の感想の中に「今回は特に食事がうまかったのでけんかもおきずスムースにいった。」とあります。いったい前の年には何があったのでしょうが。また前年の反省から食糧の軽量化がなされたようです。そのおかげか8月6日(5日目)には台風接近が伝えられたため、熊ノ平から広河原まで一気に掛け下ったということです。このコースを歩いた事のある人ならこの事の大変さが分かると思います。またこの年で初代山岳部である2回生が卒業しましたが追い出し山行はなかったようです。