1971 昭和46年 山岳部創部、第一期高原先生時代
—黎明の年にも文化祭出展、食糧計画の失敗と鳳凰断念—
8月 ニクソン・ショック ドルの金兌換を停止
10月 国連、中華人民共和国を招請 台湾を追放
5月9日 新人歓迎 川苔山
6月27日 合宿訓練 大岳山
7月29日 合宿 南ア 北部 仙丈ケ岳、甲斐駒ケ岳(鳳凰三山をリタイヤ)
〜8月3日
11月7日 秋山 戸倉三山
1月16日 冬山 本仁田山
3月21日 春山 大菩薩嶺(追い行ではない)
部長 中島 貢 顧問 高原 将 犬飼健夫
1年生 (3回生) 二木淳吉 棚橋 乾 栗原明雄 小島正次
2年生 (2回生) 中島 貢 土橋明彦 鶴上英彦 保坂秀一 西村寛州
3年生 (1回生) なし
部員数9名
<エピソード>
・3年生がいないのに1年生が少なかった
・みんな勝手に軽くして訓練にならなかった合訓
・重かったクジラ
・木綿のテント
・OBがいないのでバテた現役の荷物が高原先生へ行った
・丹渓山荘での多数決、停滞か前進か 5対5
・運動部初!?文化祭に参加
・なにもかもが手探りだった1年目
国分寺高校山岳部の実質的なスタートはこの年、高原将先生が赴任されて顧問を引き受けてくださったことに遡ります。はたしてトロイの木馬か出雲の国譲りか、3年生(1回生)から山岳部の主導権を譲られた(詳細は未だ不明)2年生(2回生)によって今に続く山岳部の雰囲気というものが作られていったようです。部長は唯一のワンゲル時代からの部員であったカメさん、亀さんではなくてカメレオンのカメさん、こと中島貢さんでしたが「実権は鶴上英彦君と土橋明彦君が握っていました」とのことです。
最初の新人歓迎山行は川苔山で、山頂では紅茶、スープ、ラーメンを作ったとあります。合宿訓練ではザックを重くするのを各自にまかせたところ「みんな軽くして合宿訓練にはあまり役に立たなかった」と反省されています。それだけが原因ではないのですが初めての合宿は南ア北部で仙丈、甲斐駒から鳳凰まで行く予定が全員バテぎみだったため鳳凰を断念しました。バテた原因で一番大きなものはクジラをはじめサカナやみかんといった大量の缶詰などの食糧にあったようです。なにしろ初めての合宿ということで適当な量が分からなかったからかもしれませんが、しおりを見ると一回の食事でひとり2合ものコメがいきわたるような計画になっています。多すぎると思います。全員のキスリングが30キロを超えたと言うのはきっと食べきれないほどの食糧に原因があるのではないでしょうか。ちなみに「残念ながら雪渓は残っておらず、氷あずきは食べることができなかった。」との記述が有り、こういうのを見ると山岳部はずっと同じことをやってきたんだとあらためて感慨深いものがあります。この年の秋に土曜の午後に出発するお月見山行なるものが企画されたのですが、教育庁から夜歩くのは危ないのでやめるようにとの指導を受けて計画を変更しました。高原先生は百ちかくの山岳部から出される「報告書」にまじめに目を通しているお役所に驚いたようです。3年生がいないため追い出し山行ではありませんでしたが、3月に大菩薩に行きました。雪の大菩薩をスニーカーで登った人がいたようですが、残念ながら「某君」とされていて誰だか分かりません。