1969 昭和44年 国分寺高校開校
—大学紛争の時代に新設された実験的な都立高校—
1月 東大安田講堂に機動隊突入
7月 アポロ11号月面着陸に成功
国分寺高校が開校した1969年とは、その前年から本格化していた大学紛争がいよいよ高校にまで飛び火しはじめた頃でした。上野高校や学芸大付属では大学生の影響を受けた生徒達が校長室や職員室を封鎖するという事件もおこりました。国分寺高校は学校のあり方が問われはじめたそんな時代に新設された実験的な面を持つ学校でした。「自治」という言葉が今とは違う重みを持っていた時代だからということもあるかもしれませんが、4月5月に相次いで作られた生徒会、クラブ、それぞれの設立準備委員会は早くも6月16日に生徒会設立総会を開き生徒会組織を立ち上げました。なお総務委員会の準備にあたって「大統領制的」にするか「議院内閣制的」にするかといった中央委員会、生徒総会などとの位置関係を実に幅広く試行錯誤した跡が生徒会室に残された資料から見て取れますが、なかなか感動的ですらあります。
この総会で設立が承認された運動系11、文化系4のクラブの中に山岳部の前身であるところのワンダーフォーゲル部が名を連ねたのであります。ちなみに文化系の中では軽音楽部もこの時代からの歴史を持ちます。ワンゲルの部長は1年5組の加藤武さん、顧問は後に学校創立10周年記念の全くオフィシャルな冊子に「マダムキラー」と書かれたオリエンテーリングが専門の、一色先生という方でした。ところでこの年についての資料は「44年度生徒会・クラブ活動のまとめ」というものしかありません。これは中央委の人間として生徒会室に出入りしていた頃に棚の中から見つけた生徒部の資料なのですが、これによってワンゲル部の1年目の活動は奥多摩山行、入笠山行、鎌倉史跡巡り(?)であったことが分かるなど貴重なものです。しかし困ったことにこの資料がワンゲル部から「山岳部」に名前を変えた時期について確定できない原因になっています。それに関しては45年度のところで書きます。大きく分けて3つの説があるのです。それから今でも部室にあるかと思いますが、「ワンダーフォーゲル部」と書かれた背負子(しょいこ)はこの年の予算としてラジウスと一緒に計上されています。