史的素敵

山岳部誌開陳

制作・山岳部誌開陳委員会+hik

**はじめに**

部誌再録の際に、山岳部誌開陳委員会が確認したのは、1972年から1996年までに出された19冊の部誌(8号までは部報)です。それ以外の記録ノートや合宿記録としてまとめられた冊子は確認の対象外としました。その中から、個人原稿のページの一部を取り上げました。
再録にあたっては、ページ数の関係もあり、原文を最大限に尊重したうえでの要約となっています。誤字脱字を訂正した上で、文章の書き加えをせずにまとめました。この場を借りて、再録の旨を伝えられないままの掲載となったことをお詫びし、文章を残してくださった元部員のみなさん(文中敬称略)に感謝します。また、各項目のタイトルは本委員会が付けました。

山岳部誌開陳委員会

**編集中記**

山岳部大全99頁から109頁に整理されていた山岳部誌名言集を再び世に伝え残したいと思い、明文のデータ化に踏み切りました。再録にあたっては、開陳委員会の意思を引き継ぎ、原文は最大限に尊重したうえで、誤字脱字の校正と補足事項の加筆に留めました。また、開陳委員会による各項目のタイトルは廃止し、年代毎に再整理したうえで、大全掲載順に並べさせて頂きました。発行された当時の雰囲気と、文章を残してくださった元部員のみなさんの人柄も偲べるように、執筆者名(文中敬称略)の記載を残すことにしました。
この場を借りて、データ化の旨を伝えられないままの公開となりましたことを、お詫びするとともに、素晴らしい文章を後世に残して下さった元部員のみなさんと往年の山岳部誌開陳委員会に感謝いたします。

 


1972年9月発行「山岳部部報No.1」より再録

 ほんとに山を知っている人と知らない人のイメージがちがいすぎると思う。そしてそれが山や登山者(ハイカーではない)に対する誤解につながっているのだと思う。神風登山というやつは、無知なハイカーが領域を考えずにむちゃくちゃに行動を起こし、あわてふためいて遭難などということを起こしてしまうのである。
 誤解をされないためには、登山者のマナーを徹底することと人間一度は登山者といわれるようになってみることだと思う。

(中川充、4回生)

 私めは今年の夏期合宿において気象係という非常に重要かつ大変な仕事をした者であります。私が合宿へ行って気象係としてやったことはというと、実は、天気図を書くだけという感じで、予報までは手がまわらないのであります。
 といってもこれだけでも役に立たないことはなく、合宿の途中台風の発生を知ってからは、“来るぞ”と気象係としては結論し、会議の末広河原まで下りることに決定したのです。まずはメデタシ、メデタシでした。

(二木淳吉、3回生)

 きまって話すことは、クラブのことなんです。一学期の頃は「どこの部」というのが、だいたいで、そのつど自信をもって大きな声で答えたんです。
 昔「山岳」って聞くと目が大きくなっちゃって「なんで山岳なんかに」って聞き返すんです。
 クラブ紹介の時まで、バレー部と決めていたのに女心ってほんとうに秋の空と同じです。気が変わったのは、クラブごとに分かれてお祭りの出店みたいになってワイワイやった時からです。なぜか山岳部だけがはやっていなかったから。

(西沢利重子、4回生)

 国分寺高校山岳部も2年を経て一応その形もかたまりつつあります。我々の築いた小さいながらもたのしい、そしておかしなクラブは、山のぼりという一見なんの得もないようなことのためにいっしょになって活動する群れである。
 我々三年も実権を譲らねば。といってすんなり渡す三年でない。おい出されたとしても顔を出すであろう。何故ならば、山を愛する気持ちと同様にこのクラブが好きだからである。
 この部報を第一歩としてこのクラブの歴史が拡大されていくことを期待している。

(鶴上英彦、2回生)

1973年12月発行「さんがくぶ部報第2号」より再録

 山と僕の出会いはねぇ、かなり小さい頃。山という奴は、不思議な力を持っているんだよ。触手があるのだよ。山道には舗装路はない。あの感触があるんだよ。畑道とも、また違うのだよ。坂というのは、本質的に人間に通じるところがあるのじゃないかしら。地平線の水平、それと平行・垂直線、それは人間が作り出したものじゃない。平行・垂直なんてことは、自然界にそうあるもんじゃないんだよ。
 だから、子供心にも感じたんだよ。山の美しさを。

(小口充、5回生)

1974年発行の「部誌」「部報」はありません—
 
 

1975年5月発行「(タイトル不明)部報3号」より再録

 山で知ったこと。男の子の方が女らしいということ。まきの煙のきついこと。人間が棒みたいにドターンと倒れるということ。意識がモーローとしている人の様子。カレーとスープとみそ汁の正しい作り方。それと山とは…花嫁学校の要素あり…ということです。

(石黒京子、5回生)

 「都民の日」「開校記念日」と連休だ。せっかくの学校の方の策略によってつくられた連休なのに、利用しないのは失礼と思い、自転車で山に登ってやろうと思った。目的地を雲取山と大きく出た。
 楽に行けるだろうと思っていたが大まちがい。なにしろ自転車を押すのも楽じゃない。それに岩がごつごつしている所などはかつがなければならない。かついだところで五分とかつげない。とうとう暗くなり月が出てきた。
 冒険者とは……もう紙(誌面)がないからやめる。

(鈴木克之助、5回生)

 (初めての個人山行で、道に迷う。)しまいにはこのまま帰れないのではないかと思うようになった。死んでも死体が見つかるのはずいぶんあとなのだろうな、などとも考えるようになった。それでも仕方ないので登った。
 すると上の方が尾根になっている気配だったので歓喜の声をあげて登った。しかしそこは尾根ではなく、山はずっと奥まで続いていた。もう泣き出したい気分だった。
 木にしがみつきながらおにぎりを食い終わって一時間くらい登っていくと、なんとそこにコカコーラの缶が落ちていた。


1976年9月発行「山岳部部報」(4号)より再録

 (部長として)山岳部はちっともよくなっていない。NO SATISFACTION! 山岳部は、部としての命を細々とたもってきたにすぎない。そして私は3年間なにをしたのか。
 否、山岳部に於いては登山のスポーツとしての可能性の追求の精神は死んだ。そして「おたがいたのしくやろうじゃないか」これが山行の唯一の必要条件として台頭してくる。
 ……そんなことはじめっからわかっていたんだ。おれだってそうしたかった。変な命題にこりかたまって時間を浪費するのはやめだ。

(石倉祐志、6回生)

 今人間はまるで機械という道具に使われているみたいです。そして、職人さんが手でつくった工芸品などに、なぜか心がひかれるのです。
 僕がここで何を言いたいかというと、感想などは、言葉という道具を使って言い表すものではなく、からだでなんとなく感じていればいいんじゃないかということです。

(春川文男、7回生)

1977年11月発行「部報」(5号)より再録

 僕は宇宙船に乗って地球を回っていた。大気の層を通して山が見えた。それは歯のすれたダイコンのおろし金のようだった。僕はフフンと笑ってそこにへばりついているだろう人間を軽蔑した。
 地上にも僕がいた。彼は太陽のサンサンと輝く、その熱で草木も枯れるような炎熱の道を歩いていた。ただ1つの希望を願って黙々と歩いていた。
 「どうして山なんかに来たんだい」誰かが聞いた。僕はただ黙々と歩いていた。

(中野聡、8回生)

 合宿の時、先輩の誘いがあり徹夜をしたのだが、なぜか、八ヶ岳の時にもそれが出てしまい、消灯午前5時、起床午前9時というなかなかおつな事をした。しかし、もう周りにはテントが一つもなく、はたして他の人が俺達のテントを見てどう思ったかを考えるとちょっと恥ずかしくなる。これからは、どうせ徹夜するなら徹夜に徹しようと思う。

(倉田節也、9回生)

1978年10月発行「山岳部部報」(6号)より再録

 合宿での集団生活はたいへん辛かったと思う。けれど、山登りとは「こんなものか」「おもしろくないな!」と結論を出してしまうのは、早すぎる。
 今度は友だちと一緒に山に行ってきたらよいと思う。山岳部の本当の活動は、自分たちで個人山行をたくさんやる事だと思う。今度の山行は、晴れの日もあったし、雨が降っていたときも歩いたし、様々な道も経験したし、料理もつくったし、体力もついた。基礎はでき上がったのです。学校は一日くらい休んで、土日月の3日間で。

(柴田謙、8回生)

 各人、それぞれの世界(考え)が違うのは、あたりまえだと思う。だから、みんな個人山行によって山を楽しむ。自然なことだろう。しかし、ただバラバラに活動しては、ただのよせ集め集団だ。みんなが個人山行で得たものを山岳部というものに還元してほしいのだ。山岳部というものは、他のクラブと違って、団体の上に個人があるのではなく、個人の上に団体があると思うからである。

(雄山隆司、9回生)

 一年生へ:とにかくやめずに続けなさい。必ず満足するでしょう。山岳部程度の練習で、成績に影響するはずはないのです。途中で止めてはだめです。
 二年生へ:なんとしても二年の間はお客さんではなく、主導権を握って、一年生をひっぱっていって下さい。
 三年生へ:飲むな。

(都留健司、8回生)

1979年発行の「部誌」「部報」はありません—
 
 

1980年3月発行「部報」(7号)より再録

 今年の合宿は私たちにとってさまざまな教訓を与えた。…2年が口ぐせのように言った言葉「去年に比べりゃ…」この言葉の裏には、「昨年より楽なのだからもっとテキパキやれ」という1年に対する気持ちがあった。事実、今年の1年の飯はスピードという点ではとろかった。
 そういう時2年がテントの中でごろんとしていたのは反省の要あり。もう少し手伝うという事をすればよかった。

(奥村太郎、10回生)

 山は、俺に人生を、男としての生き方を教えた。一生体を鍛え続け、死ぬまで山に登っていたい。ただし、山じゃ死にたくない。ふとんの上で、次に目指す山の夢を見ながら大往生したい。俺は文明人だということは否定できない。それでも山とたたかっていきたい。
 若者よ、何をそんなにあせっているんだ。安定した将来ばかり夢見て、今に生きてないじゃないか。そんなことじゃ将来安定した生活を手に入れた時、家畜になっちまったことに気づくだろうぜ。瞬間に生きよう!!

(草間良、10回生)

 (入部の理由は)B棟裏。なかなかカッコウの良いコトバである。どんな所だろう。期待に胸ときめかせて行ってみる。すると何のことはない。校内のはずれの狭いコンクリートの上にクズ材がつみ重ねられてますます狭くなり、何ともあわれな場所であることがわかった。
 この場所でとうとう僕はインスタントコーヒーとサラダせんべいを食べてしまったのである。

(前沢正治、11回生)

1981年4月発行「かたつむり」(部報8号)より再録

 今回の合宿は、あせらなかったから無事帰ってこれたのだと思う。あせっていたら悲惨とも言えた今回の合宿で生きて帰るのはおぼつかなかったであろう。
 出足から中央線の事故で高尾から急行にのるという不吉な予感を漂わせ、伊那大島からのバスは途中で降ろされ、山についても連日の雨。食糧が良かったわけでもなく、今回に合宿程ひどいものは過去にも未来にも無いであろう。そんな合宿でもやはり帰ってくるとなつかしく思えるのは不思議だ。

(田中舘智橘、10回生)

 しかし、山の美学なんていうもんは、はたで見てると本当にいやらしいもんだ。ありゃー一種の自己陶酔であって自己満足以外の何もんでもない。
 必要なのは、ナルシズムじゃなくて、自分のみっともなさとかいやらしさとかそういう偽善を対象化して乗り越えていく力だ。
 山というのはよく自己陶酔の場として利用されているが、それはやっぱりいかんことだと思う。観光主義的なレジャー感覚の山登りも嫌いだが、所謂山男特有の特権的アルピニストはもっと気持ち悪い。

(中西太郎、10回生)

 けっきょくB棟裏の青春というのは何なのだろうか。毎日じめじめした日の当たらない場所でバレーボールをしている山岳部員はまわりからどのように見られているのだろうか。
 俺は副部長なんだ。これでは山岳部を築き上げてきた御先祖さまに申しわけが立たない。今我々に必要なのは多くの予算でもなんでもない。ましてや予算委員会で勝ちとった1000円のトースターでもなければ部費でもメンツでもない。
 ただただ部員の増えるのを祈って今日もやまない。

(西沢一憲、12回生)

1982年発行の「部誌」「部報」はありません—
 
 

1983年発行の「部誌」「部報」はありません—
 
 

1984年発行の「部誌」「部報」はありません—
 
 

1985年3月発行「ぶよ」(通算9号、部誌第1号)より再録

 部の山行で浅間峠に着いて見ると、中央にドデーンと休けい所があり、ベンチがあった。それに「関東ふれあいの道」というかん板が立っていた。昨年来た時は薄暗く、とても心落ち着く所だった。このことを行ったのは環境庁であるときいている。なぜ、自然破壊が人間の環境を良くするのか?

(江口照寿、15回生)

 (編集後記にて)「月日とともに消えてほしい」と思うような思い出もありますが、私達がこれまでに登ってきた山々、それぞれでの貴重な体験はどれもが「いつまでも心に残しておきたい」と思うようなすばらしいものでした。私達の知っている言葉だけでは書き表せないようなことが多いのですが、それなりに表現してみました。
 この文集とひらいてなつかしく思うその時、私達はいくつの山々に挑戦しているのでしょう。

(篠原京子、16回生)

 僕は昨年の初春に、初めて北斗七星を見た。一杯水の空だった。北斗七星があんなに大きなものだとは知らなかった。知識の中でしか存在しなかったものが、生命力を誇示するかのように、光り輝いていた。見下ろすように。
 星の名称などというものは必要ない。星はその美しさを永遠に保ち続ければいいのだ。どれほどの人が今まで夜空を仰ぎ、星に慰められただろうか。星は永遠に美しい。

(畑中秀和、15回生)

1986年4月発行「Ab(あぶ)」(部誌10号)より再録

 国分寺の山岳部は軟弱であると言われているが、私はある意味では軟弱でもよいと思う。山へ行ってバテてしまっては困るが、必要以上にきたえることはないと思う。
 国分寺の山岳部の軟弱さは長所でもあり短所でもある。ただ確実に長所と言えるところは先輩・後輩の区別がそんなに厳しくなく、いろいろな作業をみんなでやるということである。他のクラブではまるで「学年カースト制」のようなところもある。このような感じになると楽しくみんなで山に登れなくなると思う。

(内田修司、17回生)

1987年4月発行「Long way to the top」(部誌11号)より再録

 雨といえば恐るべき十二時間歩行が思いうかぶ。夏の合宿2日目、鳳凰三山で我々は風雨にあい、新田次郎の小説になった。僕などはムレてしまい目がまわり、汗は流れ、気持が悪くなる。おまけに視界がほとんど20mで、目標がなく、気力もおこらない。なんといっても参ったのはジャンパーやカイロでさえも防ぎきれない寒さである。これはムレる雨着が原因である。
 ……とにかく雨というのは意外にこわい。てるてる坊主を持っていくべきである。

(澤渡朋之、18回生)

1988年4月発行「Alpha(あるふぁ)」(部誌12号)より再録

 嬉しいことばかりでないことを思いしらされたのが、アルファおこわやジィフィーズなどの山での食事であった。おこわは毎回食べても食べなれないし、又、合宿などでは、毎日のように同じ食品が出てくる。こういう経験がない自分にとって、これが、もっとも強い印象であるといっていいかもしれない。しかし、逆に歩き疲れたあとの昼食にでたオレンジのうまさは忘れられない。ただのオレンジなのだけれど、涙がでそうになるほどうまかった。

(村山千春、19回生)

 部員急募/この部誌を読んだ新入生諸君へ/まず入部するか迷っている諸君へ
*山岳部では新人いじめはしない。常識さえわきまえていればOKだ。
*体力不足を心配する必要はない。一度部に来てみれば、納得できるはずだ。
*山に関して知識がないなんてことも心配ない。我々も知らなかった。

(鈴木道雄、19回生)

 山岳部においては、なにが敵なのだろうか? ここで敵は山そのものだと思った人はきっと高尾山ぐらいしか登ったことのない人だろう。しかも、ロープウェイ使ったでしょ?と言いたくなる。
 実は、この部に入るまでは、登山というものをそのように考えていた。しかし、この考えは錯覚であるということが、身にしみてわかるようになったのはやはり合宿であった。
 “敵”はいなかった.あえていうならやはり自分自身ということになるのだろうが、それは“敵”というよりは最も頼りになる原動力とでもいうべきものである。

(大塚健郎、19回生)

 十年間山に登って一番感じるのは、山に行くと病気が治っているということだ。前々日まで風邪をひいていても、山に行くと治ってしまう。花粉症にかかっていても、山ではピタッととまる。
 やっぱり山はいい。私たちに健康を与えてくれるから。

(森川健太郎、19回生)

 わたしの夢は月面で山歩きをすることです。頂上で宇宙食を食べながら遠く地球を眺める。そして「ロマンティスト」になる。
 私たちは21世紀に生きるのですから、わたしは無理としてもわたしの子孫はきっとこの夢をかなえてくれるにちがいありません。
 でも遭難したらどうしよう! いやだなあー。

(野口貴之、19回生)

1989年?月発行「hilu(ひる)」(部誌13号)より再録

 (個人山行の記録。武川山頂で小父さんと出会う。)こっちはおにぎり、向こうはカップラーメンで身分を証し、話の流れで一緒にふたご山へ行くことになった。
 途中で武甲山を左にみる道にさしかかった。そこでゆびさした麓の方に秩父の町が見えた。「武甲山には特別な植物が…」話し続ける小父さんはもう一度アルプスに行けたらと願う父親だった。
 ……合宿では、出会う人数こそ多いが、コンニチハが関の山で、計画に押されて足早に擦れ違っていく。今度は、まわりの仲間とちょっと話しをしてみるというのも良いのでは。

(草間俊一郎、19回生)

1990年4月発行「れっぺ」(部誌14号)より再録

 雄大な自然の中で色んな感情のうずまいている下界を忘れて暮らす生活はとっても貴重なひとときだと思った。本当に自然はこころを大きくしてくれるし、下界での厭なことは全部置いてくるようにした。なんか悩みがあって自分が小さくなってくるのがわかったら山へ行って大きな心をもらうようにした。
 山は私の活力源だったよー。

(中村詩子、20回生)

 よく高校野球に見られる送りバント。この場面でいう目的とは、勝つことである。そのバッターだって「ちくしょう、オレ打ちてえなぁ。あーあ、まったくやりきれねえよ。どりゃあ」コツン。というぐあいに思っている(のだろうと思う)のだ。
 山の場合だって、頂上に立つというのは単なる副賞にすぎない。ただ山に居ることだって山行なんじゃないか。だからいつかやってみたいことがある。ああ、ここで寝てみたいなぁと思った所で、登りの途中でもなんでも突然昼寝を始めてしまうのである。…みんな、形式にこだわらない山行をこれからもしていこうな。

(高橋悟、22回生)

 自然の中にいるとき、いちいち理論だてたりなんて全くしません。普段の自分からは、思いもよらないぐらい私は感覚的人間に変身しているのです。この「変身をする」ということが今日の私たちに大変重要なことではないでしょうか。
 私たちは、普通朝起きると、今日は何を着ようかな?と考え、髪の毛をきれいにとかしています。時々そういった生活から抜け出してみる。そして、自然の中へ入ってみる。そうすれば、今まで見えていなかった自分というものが見えてくると思います。

(蛤谷志乃、20回生)

1991年4月発行「農協ごはん」(部誌15号)より再録

 山の中では、人間も他の動物の仲間、地球上の生き物の単なる一種類にすぎないんだと感じました。変な言い方ですが、そうやって気持ちよく歩いている時、やっと他の動物の仲間になれたというか、人間だってまだ捨てたもんじゃないぞとか。
 写真などで見る野生の動物は、じっと静止してこちらを見ているだけで、きれいだと感じます。人間にもそういう生きているものの美しさというのがちゃんとあるのかなと時々思います。運動しているかっこいい人間とかじゃなくて、そのままの美しさ、というか。

(鬼塚夏海、21回生)

 よく知人に「なぜ山に登るのか?」という質問をうけます。このての質問は一番返答に困るのですが、実際問題として(ぼくも含めて)何か目的を持って山に登っている人がいるのでしょうか?ぼくなんか、これといった目的はないというところだったりします。
 しかし、それでは、あまりにもつまらないので、ぼくは、空をみにいくことにしています。山頂からみる空は、地上でみる空と、やっぱりちがうのです。山頂に立ちながら無限に広がる空につつまれると、ぼくはいつも思います。
 “自分はなんて小さくて無力な生き物なんだろう”と。

(三井田智博、21回生)

 合訓の時、山で初めてリスを見た。以来、小動物に興味を覚え始めた。注意していると意外に見ることが出来る。山以外にだって面白そうなのがいる。
 毎朝、自転車に乗って(通学中)周りを見ていると、ヒヨドリが仲間同士で追い合っていたり、ずんぐりしたムクドリがピョコピョコと数羽で跳ね回っている。(最近、ハトは人を見ても逃げない。空飛ぶ豚となりつつある。)
 なんだか、通学が山行化しつつある。しかし、僕は山と日常の距離を縮めたいと思っているからこれでいいのだ。

(佐藤浩司、21回生)

1992年?月発行「部誌」(16号)からの再録はありません—
 
 

1993年発行の「部誌」「部報」はありません—
 
 

1994年4月発行「きつねうどん」(部誌17号)より再録

 (山に行くときは)毎回睡眠時間は短く、かぜはいつもひいていて、トレーニングしたこともなく登り、いつも地獄を見ているこりない私でした。
 しかし、不思議と楽しい事しか覚えていないのです。人間て本当に上手に出来ているなと思うけど、それに輪をかけてオプティミストなもので、あんなに嫌だったはずなのにしばらくたつとまた「集団が嫌いな人達での団体行動」がしたくなるのです。

(半坂暢子、24回生)

 細川首相の辞意を受けまして後継選びが始まっていますが、日本政界の人材不足はあいかわらずの今日この頃です。
 あいかわらずというと、山岳部の部員不足もあいかわらずで、部存続の15名をなんとかクリアしてきた崖っぷち状態が長い間続いています。
 …最後になりますが名言を引用して、ワタクシのあいさつにさせて頂きます。“山が俺を呼んでいる。空が俺を呼んでいる。そして、俺は新1年生を呼んでいる”

(小菅聡一郎、24回生

1995年4月発行「LET’S CLIMB!」(部誌18号)より再録

 私はフラフラと山岳部に入ったのであった。つい最近このフラフラの理由がわかった。
 (1)父はたまに偉そうにアドバイスなんかもするので「何でそんなこと知ってんの?」と聞いたら「ん?だってオレ大学の時ワンゲルだもん。」と言うではないか!正直ビックラこいた。 (2)僕が山岳部に所属していると言ったら、山の地図をもってきて爺ちゃん曰く「鉱山部ってとこで働いていたんだぁ」。爺ちゃんが調査しにいった山には印がついていてかなりの数があった。
 ……血のせいかもしれない。

(恵良大和、25回生)

 山の空気は深くて大きい。私は山に行ってもしゃべくってばっかりで、外国に行って日本人だけでつるんでるのと同じような状態ではあるけれど、やっぱり山の空気の中で喋るのと下界で喋るのは違う。
 喋ることに限らなくても、山の中は気持ちいい。気分がいい。重い荷物しょってても息があがっててもやっぱり気分はいい。だから山に行くんである。

(石沢みどり、26回生)

 私が山岳部の方々と初めて会ったのは、1994年の文化祭準備期間だった。クラスメートの3人から色々と話を聞いていたが、こんなに私に似ている人(=変な人)達だったとは想像もつかなかった。一言でいえば、山岳部員は普通の人から見ればちょっと風変わりと言える程個性が強い。そこが山岳部員の最大の魅力だと思う。
 秋も終わり、冬が過ぎてまた春が訪れる。入部手続を終えて、私もとうとう観察される側の人間になった。
 私 :山岳部に入ったよ。
 友人:足の皮2cmも剥けて、よく入る気になったね。
 私 :……。

(山本由起子、26回生)

1996年4月発行「うさぎ」(部誌19号)より再録

 「どうして山に行くの?」「部活だから。」という行き方だととても楽で「山に登る」(と「山での仲間との生活を楽しむ」)という目的で、目標のない登山を満喫できる。
 しかし一年後にたぶん卒業し一人で山に登ることになるだろう。そのときはできれば目標を持った登山をしたいと思うのだ。その目標はなんでもいい。写真でもいいし百名山でもいい。
 これまでのスタイルを変えて、ずっと、ヨボヨボになるまでヤマオトコでいたいなと思う今日この頃です。

(江村健、26回生)

 今回の山行はこのザックを抜きに語れない! 何と20年前に京都の西友で買ったという(西友も20年前からあったのね…)私より古いシロモノである。
 なにしろ古くてフタのベルトのしめ方がよくわからん。父親に聞くと「オレは面倒だからいつもこうやってた」と言いながら“ちょうちょ結び”をするではないか。「そんなのいや過ぎる」と私はまともにベルトをしめようと大奮闘した。しかし、固すぎてメチャクチャ時間がかかる。私は泣く泣くちょうちょ結びをした。こういういきさつがあったのだ。

(丸山仁美、25回生)

1997年4月発行「コバルトブルー」(部誌20号)からの再録はありません—
 
 

1998年4月発行「天気予言師」(部誌21号)より再録予定—
 
 

1999年4月発行「停滞前線」(部誌23号)より再録予定—
 
 

2000年4月発行「豪雪地帯」(部誌25号)より再録予定—
 
 

2001年4月発行「歩く植物図鑑」(部誌26号)より再録予定—
 
 

2002年?月発行「(タイトル不明)」(部誌28号)より再録予定—